2023年10月15日 主日礼拝
1.心迷う者 ①アリエル
v1「アリエル」とは、エルサレムの詩的呼称と欄外注にある。v2の「祭壇の炉」の注には「アリエル」とある。エルサレムは「アリエル」らしく、祭壇の炉のようになるということ。現実には敵に包囲され滅亡の危機を迎えるということ。
それは主による災い(v3)。アリエルはちりの中からささやくしかできない。(v4)イザヤ37:14-20には、危機の際にヒゼキヤ王が主に捧げた祈りが記されている。ちりのささやきのような祈りだが、主はちゃんと聞かれる。
v5 敵は退けられる。イザヤ36章-39章には列王記第二18章以降と同じ記事が書かれている。イザヤ37:36には、エルサレムを包囲するアッシリア軍の18万5千人が、主の使いによって一晩で殺されたと記録されている。
- 主が災いをもたらしたのは、悔い改めを引き出すためであり、その災いを取り除かれることで栄光をあらわされた。
2.心迷う者 ②心が主から離れている者
- v11には、主のことばを知れたくても知れない者の哀れが記されている。主が助けてくださらなければ、主を知ることはできない。自分の悟りに頼るな。
- v13には、表面的には主を敬いながら、心が離れているという指摘がある。
彼らは「人間の命令を教え込まれ」ているが、心から主を信じてはいない。
主は彼らのために不思議なこと驚くべきことを行い(v14)、心を主に向けさせようとされる。 - v15-16には、主が造り主であることを忘れている者の愚かさが語られている。
自分が何者なのかわきまえていない者は、造り主に対し「彼にはわきまえがない」と言い出しかねない。
3.「聖なる者」を「聖とする」
- そのような心迷う者、v18「耳の聞こえない人・目の見えない人」が、主の書物の言葉を知り、「柔和な者」は主によって喜び楽しむ(v19)ようになる。どうしてなのか。
v23・「わたしの手のわざを見る」→主の救いのみわざを理解する
全て事柄の背後に、主の救いの計画があることを知ると、主の偉大さがわかる。
- 「わたし(主)の名を聖とし」
「聖」の反対語は「俗」。俗は人間の領域で、聖は神の領域。
- 「聖なる者を聖とし」
神を人間の造り主であり絶対的存在として崇めるということ。
これが実はなかなかできない。
「神を第一とする」と言いつつ、二番目三番目もすてがたく、第一と第二が逆転しやすい。それでは聖としていない。
- 真に主を聖とする時、聖なる方によって楽しむ。(v19)