2022年3月27日 主日礼拝

レビ記 22章31~33節
國分広士牧師

1.主の聖なる名を汚してはならない

  • 私たちの造り主である神は私たちの原型。神に似せて造られた私たち人間は、基本的に神の性質を受け継いでいる。その性質の一面が「聖」。もう一面は「愛」。どちらも神の性質であり、これを汚せば私たち自身を汚すことになる。
  • きよさを求めるのは私たちも同じ。誰もが「きれいな水」や「きれいな空気」を求めている。マスクをするのも、きよさを求めるから。きよい状態を保ってこそ、安心して生きることができる。

2.祭司のきよさ

  • 21章の規定は祭司の規定。祭司には身に欠損のある人はなれない規定がある。現代人にとっては障害者の差別に思える規定なので、疑問が生まれる。
  • 22章では、似た規定として、生贄にささげる動物は、身に欠損のあるものではいけないこと記がされている。「いらないからあげる」というのは、人同士の助け合いなら良いが、全てを与えた神への態度としては失礼。一番良いものを神にささげなさいということ。
  • 祭司は神にささげられた人という面がある。労働や軍務に向かない体なので、祭司になるという態度はふさわしくない。どんな仕事でもできる人が祭司の勤めをすることで、神を第一とすることを明確にする。

3.神の名を汚すこと、主の聖を示すこと

  • 神の名を汚すとはどういうことか。イスラエルは「神の民」なので、周囲の人々は彼らの姿を通して神を知る。イスラエルが神の考えと異なる歩みをするなら、神の名を汚すことになる。信仰のイスラエルであるクリスチャンもこの使命を受け継いでいる。
  • 最も神の名を汚すのは、「神はいない」と言うこと。誰でも自分自身の存在がないと無視されるなら最もつらい。
  • 昨日、朝顔の会主催の「横田滋さんを偲ぶ会」が開かれ、牧師も招かれ思い出を語った。牧師としての一番の思い出は洗礼であったので、そのことを語ったが、300名ぐらいいたと思う皆が熱心に聞いてくださった。「神はいない」と言っていた横田滋さんが、キリスト教の洗礼を受けたことは関心を呼んでいたのだろう。彼は態度を変えて、イエス様を信じて洗礼を受けた。それによって神に全てをゆだね栄光をお返しした。
  • 私たちも主なる神を信じ告白して、主が聖なるお方であることを示そう。