2019年8月18日 主日礼拝

ペテロの手紙第一 2章1~12節
國分広士牧師

「あなたがた」とはこの手紙の読者である、キリスト者たち。キリスト者の集まりこそ教会。教会とはどういう存在なのか「あなたがた」から考えよう。

1. みことばを求める

  • みことばは「霊の乳」。赤ん坊が乳を必要とするように、霊的な成長にみことばが必要。成長して救いを得るのが目的。私たちは救いの約束が与えられているが、まだ私たちは完全には救われた状態には至っていない。罪を犯し、神を疑う不信仰も残っている。しかし、どうせ地上では完全に至りはしないと救いの完成を諦めるのは、神の望む態度ではない。小さいこどもが懸命に成長しようと努力する様子は、まだ完全でなくてもほほえましく美しい。神はそうした努力を喜ばれるのではないか。

2. 罪を悔い改める

  • 1節に罪を捨てることが命じられている。罪はみことばを拒むから。8節には、みことばに従わない人がキリストにつまづくことが記されている。11節には、肉の欲がたましいに戦いをいどむと記されている。罪を抱えている者にとって、裁き主の存在はうとましく、存在そのものを否定したくなる。だから罪を捨て悔い改めることが、みことばを受け入れるために必要。

3.祈る

  • 5節の「霊のいけにえ」とは、イエス・キリストを通して献げるのだから、主に祈りを指すと思われる。祭司がいけにえをささげるように私たちは神に祈る。

4.選ばれ神のものとされている

  • 全ては神の計画による。8節には「そうなるように定められていた」とある。また9節「神のものとされた」というのは受け身であり、主体的に選ぶのは神であることを示している。キリストを救い主として選んだ自分を賢いと高慢になってはいけない。自分がキリストを選ぶ前に、神が自分を選んでくださっていたのだから、謙虚に感謝すべきである。

結 異邦人の中で立派に振る舞う(12)

  • キリストを信じない人はキリスト者を悪人よばわりする。ローマ時代の迫害もそうだったし、日本でも豊富秀吉は、キリスト教は自分の権威に対する脅威であると思い公的な迫害を始めた。徳川幕府も同じで、キリスト教迫害は鎖国に至る。以来、キリスト教は「耶蘇」と呼ばれ、嫌われ迫害されてきた。今でもキリスト教に対する嫌悪感や不信感は続いている。
  • そうした異邦人に対してできる最善のあかしは「立派な行い」である。同胞の救いを願うなら、彼らが神をあがめるまで良い生き方をし続けよう。そのために「神のものとされた」のである。