2019年4月14日 主日礼拝

創世記 3章1~24節
國分広士牧師

1.誘惑に負けた

  • 蛇はサタンに用いられ、善悪の知識の木の実を食べれば神のようなると、誘惑した。
  • 誘惑には事実と嘘が混ざっているのでだまされやすい。確かに毒はないので食べて死ぬわけではないし、目が開かれて善悪を知るようにもなる。しかし「神のようになる」わけではない。
  • 食べたければ、「蛇にこう言われ、食べたくなった」と神に訴えるべきだった。しかし、勝手に食べた。それは自分のやりたいことを優先する自己中心な態度。神より自分を第一にすることが罪の始まり。  

2.主の御顔を避け、悔い改めずに言い逃れようとした

  • 食べると確かに目が開き、善悪を知った。しかし同時に、それまで恥ずかしくなかった自分の裸を恥じるようになった。
  • 腰のおおいを作っても、恥ずかしさは消えず、神の顔を避けて隠れた。罪を犯すと人は心にやましさが生まれ、事実を隠し逃げたくなる。
  • 神は人が自分から罪を認めて謝ることを期待していた。いきなり責めずにまず「どこにいる?」と問い、次には「食べたのか?」と尋ねる。
  • 人は責められるより前に自分から謝るべきだった。しかしあくまで逃げようとし、罪を認める代わりに「裸だから」「女がくれたから」と言い訳をする。女も「蛇が惑わしたから」と。それは全面的な嘘ではないが、自分の責任を認めないので不誠実。

3.造り主の前から追放された

  • 神が「善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」(2:17) と言われたのは毒があるということではなく、反逆の罪で死ぬことになるということ。エデンの園から追放され、いのちの木の実を食べられないので、やがて人は死ぬ。
  • しかし、ただちに殺されずに時間が与えられたのは主のあわれみ。また役に立たない「腰のおおい」の代わりに「皮の衣」が与えられたのも神のあわれみ。罪を犯し汚れても、人は神に愛されている。
  • この人の罪の汚れがきよめられ、神との交わりが回復されることが、人間の真の必要。神はその必要を満たすために救い主イエス・キリストを与える。その約束が、3:15にある。
     わたし(主)は敵意を、おまえ(蛇&サタン)と女の間に、
     おまえの子孫(神の敵&サタン)と女の子孫(イエス)の間に置く。
     彼(イエス)はおまえ(サタン)の頭を打ち、
     おまえ(サタン)は彼(イエス)のかかとを打つ(十字架につける)。