2015年5月3日 主日礼拝

黙示録 5章1~14節
國分広士牧師

1.ほふられた子羊

「ほふられたと見える子羊」ということばは、創世記22章でアブラハムがイサクの代わりにいけにえにした羊を思い起こさせる。その羊は神ご自身が備えてくださり、神を信じ従う者に与えられた。また出エジプトにおける過越の1歳の子羊も思い起こす。それらは全てキリストを預言する出来事。「ダビデの根(5)」であるこの子羊は、主イエス・キリスト。

2.ふさわしい方

巻物の封印は、ふさわしい者しか解けない。子羊はふさわしい方であることが9節で述べられる。子羊は①ほふられ、②その血で人々を贖い、③贖った人々を王国とした。建前で正しいことを言うだけの者では、封印を解くのにふさわしくない。世には多くの教祖や宗教指導者が存在したが、私たちを救うために犠牲となって死なれた方はイエス・キリストしかいない。

3.聖徒たちの祈り

子羊が御座にすわる方の右の手から、巻き物を受け取ったとき、二十四人の長老は香のいっぱい入った金の鉢を持って、小羊の前にひれ伏した(8)。この香は聖徒たちの祈りだと記されている。アブラハムもこの長老のような存在。私たちは長老にすらなれそうもないが、長老とてふさわしい者ではない。人は誰も救い主にはなれない。しかし、私たちも、子羊が封印を解くときに、かぐわしい香りを放つ「祈り」をささげることはできる。どんな祈りなのだろうか?主に世の救いを求め願う祈りなのだろう。主イエスを信じ、彼に期待し、心からの祈りをささげる者となろう。