2013年7月28日 主日礼拝

ルカの福音書 10章25~37節
國分広士牧師

1.私の隣人とは誰なのか

「どうしたら天国にいけるのか」と真面目に考える姿勢は、神の律法を学んでいるからこそ出てくる。聖書に教えられないと「どうしたら地上で幸福になるか」としか考えない。神の教えの実践として、具体的に誰を愛すべきかと考える姿勢を私たちも持ちたい。

2.誰が隣人になったのか

主イエスは瀕死の旅人に遭遇した三人を例に挙げ、「誰が隣人になったのか?」と問い直す。「なった」ということは、それまで隣人でなかった人でも、自分が手を伸ばせるところに必要を抱えた人がいるなら、その人の隣人になれるということ。「自分の責任範囲」を考えていた姿勢を主イエスはただされたのだ。

3.誰が私の隣人になってくれたのか

「あなたも同じように」と言われて、簡単に「はいやりましょう」と応えるのは難しい。もしかしたらできるかもしれないが、できない可能性のほうがはるかに高い。実は自分は助けを与える存在というより、永遠のいのちを得る可能性がほとんどない「瀕死の行き倒れ」なのだ。しかし主イエスは私の隣人になってくださり、十字架で罪の代価を代わりに支払ってくださった。主の愛を受け入れ救っていただこう。