2023年3月19日 主日礼拝

イザヤ書 1章15~20節
國分広士牧師

1.預言者イザヤの時代

  • 1:1に、イザヤが活動した時代のユダの王たちの名が記されている。紀元前8世紀から前7世紀にかけて長期間活動した。その時代はメソポタミヤのアッシリヤ帝国が最盛期であった。ヒゼキヤが南王国ユダ王の時に、北王国イスラエルは滅ぼされ、ユダも危うかった。イザヤの活動時期はそうした厳しい時代だった。

2.緋のように赤い罪

  • 2節で、主は、イスラエルを子として育てたのに背いた恩知らずを嘆く。4-5節では聖なる方を侮り、反抗を重ねているとある。主を侮ることが問題の根である。
  • 主は民をこらしめとして打つが、反抗が繰り返されるため、傷跡が全身に及んでいる(6節)。大国アッシリヤによって北王国イスラエルが滅ぼされたことを思い起こす。8節に「娘シオンは残された」と記されているシオンとはエルサレムのこと。アッシリヤは南王国ユダの都エルサレムも包囲した。
  • 主が意図的に南王国を生き残らせてくださったことを謙虚に受け止めなければならない。だが、運が良かったと思ったり、自分たちが忠実だったからと自慢したり、自分は滅びないとたかをくくる誤った受け止め方が多い。9節では主の怒りで滅ぼされたソドムとゴモラになぞらえ、預言者のことばを聞く主の民に「聞け。ソドムの首領たちよ…ゴモラの民よ」と呼びかける(10節)。これは挑戦的な言い方で悔い改めを求めているのである。
  • エルサレムの民の問題として、11-14節では、主にささげているはずの「いけにえ」「ささげ物」「香の煙」を主が忌み嫌い、主への礼拝であるはずの「新月の祭り」「安息日」「会合の召集」「きよめの集会」に耐えられないと言われる。
  • さらに15節では主に祈っても聞かないとまで言われる。「あなたがたの手は血まみれ」だから。裏で罪を犯しながら熱心な宗教活動を行なっているのだ。

3.聞くのか拒むのか

  • そこで16-17節では、まず悔い改め、真に主に喜ばれる生き方をするように教える。その悔い改めが必ず主に受け入れられることを教えようと、18節で「あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。」と語られたのだ。
  • このことばを聞く側は、自分の手が緋のように赤い血まみれだと自覚し、「確かに私はソドムやゴモラの民と同類だ」と思わない限り、この悔い改めの勧めを自分に当てはめ、へりくだることはできない。
  • 誰でも「自分は普通の人間だ。そんなに悪くはない。」と思っているので、自分の罪を認めるのは誰にとっても課題である。言い訳や自己弁護をして、すなおに悔い改めることをしない場合が多い。
  • しかし、祈りが聞かれていないと言う実感もないだろうか。主が自分の祈りを拒絶されているなら、妨げとなっている罪があるのかもしれない。実は緋のように赤いのかもしれない。納得がいかないなら主と論じ合おう。祈りは神への語りかけ。聖書は神のことば。祈りと聖書で神と論じ合うことができる。
  • 主と語り合い、表面的にではなく、心から罪を悔い改めるなら、「雪のように白くなる」。拒まずに主のことばに聞き従おう。