2023年11月26日 主日礼拝

ヨハネ第一の手紙2章1-2節
國分広士牧師

1.罪を犯さないようになるため

  • 罪の理解の仕方は、教えによって異なる。聖書は、神の聖さを基準として罪を理解する。
  • 聖書は、人間は神のかたちとして創造されたと教える。人は自分の原型である神を求めるようにできている。神の聖さにもあこがれ、聖くなりたいという願いを持っている。
  • 「聖人君子」ということばで表される聖人思想は儒教的。人は模範的な聖人を見習うことによって、聖くなれると考える。聖くないのは学びが足りないから。しかし「少年老い易く学成り難し」とも考え、理想は実現しがたいとも達観する。
  • 罪人が自分よりましな罪人を模範にしても、泥水で手を洗うようなもの。ましになるだけで、本当にはきれいにはならない。きれいな水が必要。ヨハネは「罪を犯さないようになるため」に、神による「きよめ」を教えた。(1:7,9)罪の解決は聖い神によるのだ。

2.とりなしてくださる方

  • 私たちは罪人。「罪を犯さないようになる」ことが真に実現するのは、キリストの再臨後。今の時代においては、いくら学んでも心から罪が湧いてくるので、必ず罪を犯す。
  • しかし失望する必要はない。父なる神のさばきの場では、イエス・キリストが私たちをとりなしてくださる。私たちは「自分のきよさ」ではなく、キリストに希望を置こう。
  • 「人任せは良くないのでは?」と考える人もいる。自分でできることを人任せにすることは良くない。しかし、自分ではできないこともある。自分で自分の手術はできない。罪のきよめは体の手術以上に深い部分の癒やし。自分ではできないから委ねるのは当然。
  • 任せたくない、委ねたくない、という思いは、サタンに利用されやすいので注意。

3.宥めのささげ物

  • ではキリストは、どうやってきよめ、何をもってとりなすのか?
  • 鍵になるのは「宥めのささげ物」ということば。
  • 旧約聖書には、動物の生贄による、罪の宥めのささげ物のことがたくさん記されている。人の罪は、その人自身のいのちで償わなければならないが、その身代わりに動物のいのちをささげる。常に罪を犯すので、償いも繰り返される。
  • しかし動物は本当には人に身代わりにはなれない。人の身代わりになれるのは人だけ。それも罪のない人だけ。
  • キリストは人の身代わりなるために人となり、罪のない聖い人生を歩まれ、私たちの罪を背負って十字架で死なれた。それが「世全体の罪のための宥めのささげ物」。
  • キリストは死後に復活して生きている。そしてご自分の贖いを根拠に、父なる神にとりなしをしてくださるのだ。

  また、愛のうちに歩みなさい。キリストも私たちを愛して、私たちのために、ご自分を神へのささげ物、またいけにえとし、芳ばしい香りを献げてくださいました。エペソ5:2