2025年11月23日 主日礼拝

序
聖書は「誰を信じるのか?」と私たちに問いかけている。
1.神より蛇を信じた罪
- 神は「善悪の知識の木の実を食べると必ず死ぬ」と言われたが、蛇は「決して死にません」と正反対のことを言い、神を疑わせた。論拠は「善悪の知識」なら良いものであり、良いものを得させない神はおかしいということ。だが、「神のようになり」「死にません」という主張に根拠は何もない詐欺である。詐欺が多い時代に知っておくべきこと。
- 人はなぜ蛇の詐欺を見抜けなかったのか?6節で女がその木をよく見て、好ましかったので食べたとある。結局は自分で決めたのだ。
2.「何を信じるのか」と「誰を信じるのか」の違い
- 「善悪の知識の木を造らなければよかったのに」という疑問がわく。この木の持つ意味は神のことばに従うかどうかを試すことにあった。背く可能性がないから従うだけなら、意思とは無関係。自分の意思で従うことを神は求めておられるので、あえて試されたのだ。
- 真に大切なのは、「善悪の知識の木をどう評価するか」ということではない。「神のことばを信じるかどうか」ということである。内容がなんであれ、「神の言われたことだから」という理由だけで十分だったはず。それは私たちにとっても同じこと。
3.見捨てないのは造り主
- 神は裁くが、同時にあわれまれた。裁きは手加減された。その場で死刑にはされず、追放刑へと減刑されたのだ。また、エデンから追い出す前に、皮の衣を作って着せてくださった。さらに、蛇へのさばきの言葉の中に、救い主を与える約束も込められている。
- サタンは惑わしても助けてはくれない。アダムはエバを見捨てた。自分しか頼れないのか?いや、自分で自分を救うことは誰にもできない。
- ご自分を裏切った者さえあわれみ、助け、ついに救ってくださるのは造り主である神。誰が本当に信じるべき方なのか、わきまえよう。
結
自分は誰を本当に信じるのか?それは自分自身で決めなくてはならない。頼りにならないものではなく、真に頼るべき方を信じよう。

