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2025年10月12日 主日礼拝
1.「主に」感謝する
- 感謝の姿勢は麗しい。もし自分が誰かに「ありがとう」と言われればうれしい。
- 誰が誰に対してでも、感謝する姿勢を見ることができれば好ましい。
- だが、ここで言う感謝は「主」への感謝。人への感謝より先に、主に感謝する。
- 色々な対象に感謝した上で、「そういえば主にも感謝しておこう」という態度なら失礼
- 主は心を見るので形式だけの感謝ならどう思われるか。
- 真に主に感謝しているだろうか?
2.何を感謝するのか?
- 好調で嬉しいことが多ければ、感謝しようと思えば色々思い浮かが、不遇な状況では感謝の言葉は出にくい。出にくいからこそ、不遇な状況下でも感謝をするなら、それは信仰の表明になる。
- 何を感謝するのか? 2節では「あなたの恵みを」「あなたの真実を」とある。
- 4節では「あなたのなさったこと」「あなたの御手のわざ」とある。
- 主が全てを創造してくださったこと。私たちを生かしてくださっていること。主を信じる者を主の民として選んでくださること。やがて偉大な救いを実現してくださること。こうした主の「みわざ」と「ご計画」は、自分の状況が好調であろうと不遇であろうと、変わりがない。いつも感謝できるはず。
3.朝に 夜ごとに
- 感謝はたまにではなく、いつもささげられることが良い。都合の悪い時には感謝しないと言う態度なら、それまでの感謝の姿勢が台無しになる。
感謝の事例として、ダニエルから学ぼう。ダニエルは、いのちの危険がある時に、いつも通りに感謝した。
<ダニエル書6章10-11節>
10, ダニエルは、その文書に署名されたことを知って自分の家に帰った。その屋上の部屋はエルサレムの方角に窓が開いていた。彼は以前からしていたように、日に三度ひざまずき、自分の神の前に祈って感謝をささげていた。
11, すると、この者たちが押しかけて来て、ダニエルが神に祈り求め、哀願しているのを見つけた。
この時、30日間、王以外に対して祈願したなら獅子の穴に投げ込まれると言う禁令文書が出されていたので、主に祈るのはいのちがけだった。しかしダニエルはいつもどおりに主に感謝した。意地で続けたのか?主への恐怖心が勝り、祈りを止められなかったのか?そうなら感謝ではなく「哀願」しそう。確かに哀願もしたが、それより先に感謝をささげたことが記述されている。
ダニエルは、本当に感謝していたのだろう。だからこそ、主は彼を守られた。禁令違反で獅子の穴に投げ込まれても、何も危害を受けなかったのだ。
- 結 ダニエルほどの信仰に達することは、私たちには無理だろうか?そうならば、聖書に彼の歩みが記述される意味は薄い。模範として学ぶために記されているはず。
ダニエルとて、信仰の歩みは一歩一歩だった。最初は食事の問題だった。次はダニエル自身ではなく、彼の友人たちが偶像崇拝を拒絶して火刑になったが、主に守られる経験をしたので、その模範を心に刻んでいた。主が信仰の課題をひとつづつ与え、彼の信仰を育ててくださったのだ。
主のご真実を信じ、感謝をささげよう。
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