2025年1月5日 主日礼拝
序
モーセはもういない
ヨシュア記はモーセの死後から始まる。ヨシュア自身は若い頃から長くモーセの従者として仕え、モーセに従うことと、主を信じることとの区別はなかった。しかし、モーセの死後は、彼自身の責任で自分とイスラエルの民がどう歩むかを決めなくてはならない。真の信仰が問われるのはこういう時。この大切な時に主が与えたみことばに注目しよう。
1主がともにおられる
- モーセはいないが、主はおられる。モーセがいた時にも、本当はモーセではなく主を信じ従っていたはず。しかし、主を信じる信仰が本物でないと、指導者の顔色を見ることと主のみこころを求めることとの区別がなくなる。指導者は神ではないので過ちも犯す。指導者の意見と主のみこころに食い違いがないかを判断するのは、従う者の義務。主のみこころを理解し主に従っていたならば、指導者がいてもいなくても同じように歩めるはず。
- 主は「わたしはモーセとともにいたように、あなたとともにいる。」(5)と言われる。これを信じるかどうかは信仰の基本。
2.強く雄々しくあれ
- 空元気では続かない。真の強さには根拠がいる。実際に主がともにいるから勇気が湧く。主も「わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」と約束された。不安な時にはいつでも主に祈れるから、自分に頼る必要はない。
- 主の与える使命は大きい。4節に記された領土は広大であり、実際にはイスラエルはその一部分しか領地にできなかった。主はもっとヨシュアを用いたかったのだ。そのためには真に主を信じ「強く雄々しく」ある必要があった。
- 不完全ではあってもヨシュアは主を信じ、主に用いられた。私たちが見習うべき模範がある。また、どこが不十分で、どうしてそうなったのかを考察する材料も提供されている。
3.忘れてはいけないこと
- 7節に 「律法のすべてを守り行うため」
- 「これを離れて、右にも左にもそれてはならない。」
- 「あなたが行くところどこででも、あなたが栄えるためである。」とある。
- 主がともにおられることを信じているかどうかは、主のみことばに従って生きるかどうかにあらわされる。「信じている」と言いつつ従わないなら、主を侮辱することになる。
- みことばに従おうとするなら「このみおしえの書をあなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさめ。」を実行しよう。常にみことばを意識することが必要。
- そこまで宗教に支配されたくないというのが本音ならば、もう一度本気で主を信じるかどうかを問い直さなければならない。
結
強く雄々しくあれ
主がともにいると本当に信じているなら、心強い。強く雄々しくあるかどうかは、真に信仰をもっているかどうかの試金石。