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2024年2月4日 主日礼拝
1.主だけが地のすべての王国の神
- 祈りの対象は誰か?どんな方か?
- 訴える相手が誰なのかによって、訴え方は変わる。真の実力がない相手ならば、共感を求めることはできても、解決は求められない。
- ヒゼキヤは主だけが真の神であり、他の国々にとってもそうなのだと信じていた。国が変われば宗教も異なる。しかし、天と地を造られたのは主であり、他に造り主はいないと信じていた。
- 造り主は全能者。だから大胆に願うことができた。応じてくださるかどうかは神の御心次第だが、応え得る実力があることを信じるところから祈りは始まる。
2.アッシリアは人にすぎない
- 自分の直面している問題が何かを理解することも大切。
- アッシリアは、ユダに「主により頼んでも無駄だ」と迫り、降伏を迫った。ヒゼキヤ王はこれを受け入れるかあくまで抗戦するかの選択に迫られていた。
- アッシリアは隣国イスラエルを滅ぼし、自国ユダの町々も取られ、王都エルサレムも陥落寸前まで追い詰められた。アッシリアの強さはわかっている。しかし、ヒゼキヤはその事実を、「神ではなく、人の手のわざ、木や石にすぎなかったので滅ぼすことができた」と理解していた。どんなに強くてもアッシリアも人に過ぎない。造り主である神には立ち向かえない。
- アッシリアは人を滅ぼすつもりで、神に立ち向かっているとヒゼキヤは理解していた。その理解に立つと、問題意識が整理され、求めるべき事柄が見えてくる。
3.地のすべての王国は主を知る
- 全世界の造り主にとっては、アッシリアもユダも小さな存在に過ぎない。生きようが死のうが、神にとっては痛くもかゆくもない。
- 私たち被造物が神にとって価値あることができるとしたら、造り主を信じることだけ。強制されてではなく、自分の意思で神を信じ従うなら、神は喜ばれる。
- ユダが滅びても誰も主をたたえないし、主の御名を汚すことにもなる。しかし、主によってアッシリアの手からユダが救われるなら、周囲の国々も主が誠の神であると知ることになるとヒゼキヤは考えた。
- ヒゼキヤが救いを求めるのは、自分のためではなく、主の栄光のためだった。そこまで心が整理されて、心からの祈りとなった。
- 追い詰められる前に心からの祈りができたほうが幸いだが、追い詰められた時に祈る気持ちにもなれないこともある。ヒゼキヤが祈れたのは幸い。主は私たちにも祈りの機会を与えてくださっている。
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