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2023年10月29日 主日礼拝
1.主に立ち返れば
- 「れば」という表現は、今はそうではないという実態を表している。「しかし、あなたがたはこれを望まなかった」とある。この言葉が告げられた対象であるユダの人々は、主を信じる民であるはずなのに、主から心が離れていた。
- 1-7節には、ユダの民が、大国アッシリアが迫ってくる脅威の中で、エジプトと同盟を結んで頼ろうとすることの空しさが語られている。厳しい時こそ、頼るべき相手を間違えてはいけない。
- なぜ頼りにならないエジプトに期待してしまうのか?それは、主を避けているからではないのか?「立ち返る」とは、今はあるべき状態ではないことを認めることであり、悔い改めを意味している。自分の弱さや問題を素直に認めるのは苦しい。エジプトとの同盟の方が、体裁を保てる。しかしそれは虚勢であり、取り返しのつかない滅びに進んでしまう。素直に立ち返ろう。
2.主を信頼すれば
- 主に頼ろうとしないもう一つの理由は、自分が赦され受け入れられることが信じられないからだろう。これまで不従順であった自覚のゆえに恐れている。主への信頼がないと、立ち返ることもできないのだ。
- 私たちが主に愛される理由は、ただ主が愛のお方であることに尽きる。主はご自分の被造物を愛し、特に神のかたちとして造った人間を愛してくださる。神は一人一人を別の存在に造り、それぞれを愛してくださる。自分は見捨てられていると感じるのは、主の愛を知らないから。
- 主はご自分の愛を歴史的にも示してくださった。イスラエルをエジプトから導き、カナンの地を与え、外敵から守り、主を信じる者を救ってくださることを幾度も示された。それは、主が信頼できる方であることを教えるためだった。
3.力を得る
- イザヤ書36-37章には、アッシリアによるアルサレム包囲の様子が記されている。(この記事は第二列王記18章と第二歴代誌32章にも記されている)
- ユダは一旦はアッシリアの大軍に包囲され滅亡寸前に追い込まれた。ユダは城門を閉ざし籠城して耐えた。その後、アッシリア側の都合で軍は引き上げたが、また来ると脅しの手紙をよこし、降伏が求められていた。わずかの猶予期間の間に態度を決めなければならなかった。
- この時、ユダのヒゼキヤ王は、エジプトにではなく、主の神殿に行き、主に助けを求めて祈った。その結果はどうなったのか。イザヤ37:36-38を読むと、主の使いによってアッシリア軍の18万5千人が殺され、アッシリア王センナケリブは王都ニネベに引き上げる。ところが自分の神に祈っている時に、自分の息子たちに殺されてしまった。
- 主に立ち返り主に信頼したヒゼキヤ王は、主の力を得た。私たちも主に立ち返ろう。
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