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2022年6月19日 主日礼拝
1.なぜ主イエスの教えを聞いても行わないのか
- 46節:イエスの教えを聞き、イエスを主と呼ぶ人は、呼ばない人よりも主イエスの教えを知っている。しかし、知っていても、行なわないなら、人生を変えるほどの深い意味はない。
- 主イエスの教えは常識を超えている。この章にもいくつも常識を超えた教えが記されている。貧しい者・飢えている者・泣いている者が幸いで、富む者・満腹する者・笑う者が哀れだという教え。敵を愛し、自分を迫害する者に善を行えという教え。さばかないで赦し、寛大に与えよという教え。他人の目のちりを取る前に自分の目の梁を取れという教えなど。自分には実行不可能に思えるが、行う人がいればすばらしいと思い、真理であるとも感じる。
- 主イエスのことばを尊重するなら、行えない言い訳ではなく、なぜ自分は聞いても行わないのかと考えるべきである。
2.土台が大切と知っているはず
- 主イエスは、教えを行う人と行わない人の違いを、岩の上に土台を据えて家を建てた人と、土台なしで地面に家を建てた人というたとえで理解させようとする。
- 建物は土台が大切で、強固な土台の上に建っていないと、災害が起きると壊れてしまう。しかし、災害に耐える強固な土台は簡単にはできない。①地面を深く掘り下げ ②岩の上に土台を据え ③家を建て といった面倒な工程が必要。
- 建物の土台にどれだけの資金を投じているだろうか。大震災を前提とした土台となれば巨額。いざという場合は大きなビルなど丈夫な建物に避難してくださいと注意喚起されているので、一般家屋は土台に大きな犠牲は払わないケースが多いのだろう。それは主イエスの時代も同じだっただろう。大切だとわかりつつ、おろそかにされやすいのが土台。
- 人生を歩む上での基本的な考え方も土台。主イエスの教えは、常識を超えるぐらい深く心の問題を掘り下げ、強固な人生の土台を作る。富や飽食や楽しさだけが人生の意義ではない。貧しく、飢えと戦い、悲しみを堪える人も感動的な人生を送っている。敵を憎み攻撃する人より、敵を赦し、愛し、与える人の方が尊いと感じる。そのように生きる姿勢を持つ人は、どんな人生の試練にあっても揺るがない強固な土台に建つ家のようである。
- しかし私たちは強固な土台ではなく、簡便な土台で過ごしている。それは「みんなやってる」という土台。他の人の動きを理解することは良いことだが、人々の安易さに流されて、皆とともに滅びに向かう危険性がある。
3.危機に直面した時に通用する土台に立とう
- 「いざという時は逃げよう」という考えは、神のさばきの前では通用しない。災害からは逃げられても神からは逃げられない。神のさばきの前に自分の人生の終わりがくる。人生が終わる前に、主イエスの教えに従おう。
- 主イエスは、私たちが神のさばきから赦していただけるように、私たちの罪の罰を身代わりに受けて十字架で死なれた。さらに三日目によみがえり、永遠のいのちを与えることを示された。主イエスを信じる者を神は救い、永遠のいのちを与えてくださる。行えないことはたくさんあっても、救いの教えだけは信じよう。
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