2022年2月6日 主日礼拝
1.食べて良いもの
<最初は植物だけ>
神は仰せられた。「見よ。わたしは、地の全面にある、種のできるすべての草と、種の入った実のあるすべての木を、今あなたがたに与える。あなたがたにとってそれは食物となる。(創世記1:29)
<洪水後に、肉食も許されるが、血は食べてはいけない>
生きて動いているものはみな、あなたがたの食物となる。緑の草と同じように、そのすべてのものを、今、あなたがたに与える。ただし肉は、そのいのちである血のあるままで食べてはならない。(創世記9:3-4)
<レビ記では、肉食の範囲が限定される>
「イスラエルの子らに告げよ。次のものは、地上のすべての動物のうちで、あなたがたが食べてもよい生き物である。動物のうち、すべてひづめが分かれ、完全にひづめが割れているもので、反芻するもの。それは食べてもよい。(レビ11:2-3)
<主イエスは食べ物より心が重要と教えた>
「外から人に入って来るどんなものも、人を汚すことはできません。それは人の心には入らず、腹に入り排泄されます。」こうしてイエスは、すべての食物をきよいとされた。(マルコ7:19)
※主イエスのことばは、「汚れの規定」が先になければ無意味。
2.心の問題としてのきよさを求める姿勢
- 祭司ナダブとアビフは、主が命じたものではない異なる火を主の前に献げたので、主に焼き殺された。彼らは偶像にではなく「主の前に」献げたのに神罰を受けた。主を汚そうとしたのではなく「献
- 主は「わたしが聖だから」と言われる。主を信じ従おうとするなら、主の嫌われることを捨て、主が喜ばれる姿に近づく姿勢があるはず。
- しかし私たちは、主が近づいてくださることは歓迎するが、自分が主に近づくことには躊躇したり、嫌ったりする。
- 律法には、主に近づこうとする姿勢があるのかないのかを明らかにする意味がある。「律法を通して生じるのは罪の意識です。」(ローマ3:20)
- 「汚れ」の教えを学ぶと、めんどうくさく感じたり、納得できないと感じやすい。しかしそう感じるのは、「面倒臭さ」や「説明がつかないこと」を悪とし、都合よく事が進むことを善と思う善悪感を持っているから。すなわち自分にとって都合が良いか悪いかが物差しになっている。だから神の教えですら都合が悪ければ、エバのようにあっさりと捨てる。
3.「あなたがたは聖なる者とならなければならない」
- この神のみこころはやがて実現する
すべての国民、部族、民族、言語から、だれも数えきれないほどの大勢の群衆が御座の前と子羊の前に立ち、白い衣を身にまとい、手になつめ椰子の枝を持っていた。彼らは大声で叫んだ。「救いは、御座に着いておられる私たちの神と、子羊にある。」(黙7:9) - そこに自分が加わっている事を思い、聖い生き方を求めよう。