2019年8月4日 主日礼拝
- 富や権力を持たなかったイエス様は、この世的には見栄えがしなかった。
- 十字架に磔になった者の姿はむごたらしく、目を背けたくなる。
- イエス様の苦しみは、自分のためでなく、私たちのためだった。ところが、私たちは、神を冒涜した罰だと思っていた。
- 事実は、イエス様の受難は、私たちの罪の身代わりに罰を受けたのである。だから、あがなわれた私たちは癒され、平安が与えられる。
- 羊は飼い主がいなければ、どこに行くべきかわからずにさまよう。群になる習性はあるが、行き先がわからなければ、群全体で迷う。自分がどこから来て、どこに行くのかがわかっていないのに、自分勝手に生きるてなら、迷う羊のようなもの。ところが、主はそうした悟りのない者の咎をイエス様に負わせ、救ってくださる。
- 十字架前の裁判でも、連行されて行くときも、磔になっているときも、主は自己弁護や相手を罵ることもなく、祈りと赦しととりなしだけを語られた。
- イエス様が復活するまで、民の背きの罪のゆえに死なれたとは理解されなかった。
- 最大の敬意を払って葬られるべきなのに、ただの人として埋葬された。
- イエス様が代償のささげ物となることは、主なる神のみこころだった。みこころに従って自身をささげたイエス様は、子孫として弟子
1 . 「からだ」という比喩
聖書には多くの比喩表現がある。軽い意味で用いられている比喩もあれば、重い意味をこめて用いられる比喩もある。教会を「キリストのからだ」と言う表現は、単に一言で終わらず、そのことばを用いて多くのことが語られているし、他の書簡でもしばしば教会を「キリストのからだ」と表現しているので、重い意味が込められている。私たちも自身が「キリストのからだ」に属するその一部分だということをよく考えたい。コリント第一6:15,エペソ1:23、5:30、コロサイ1:24など参照
2 . 部分は多いがからだは一つ
からだには多くの器官がある。パウロは「足・手・耳・目・鼻」といった器官を例示し、それぞれ特長の違いがある意義を「全体が目であったら、どこで聞くのでしょうか。もし、からだ全体が耳であったら、どこでにおいを嗅ぐのでしょうか。(17)」「神はみこころにしたがって、からだの中にそれぞれの部分を備えてくださいました。(18)」と語る。 それを語る目的は「からだの中に分裂がなく(25)」という表現にみられる。コリント教会には、内部分裂の問題があったのだ。各人に神から与えられた賜物に違いがあり、また実際の働きの内容や苦労の度合いにも違いが多いため、互いに違和感を感じ、「私は手ではないから、からだに属さない」「目が手に向かって「あなたはいらない」と言う」などと裁き合っていたのである。 考え直すべきは「賜物はいろいろありますが、与える方は同じ御霊です。奉仕はいろいろありますが、仕える相手は同じ主です。(4-5)」ということ。同じ主から与えられた賜物で相手を裁くのはお門違い。同じ主のための奉仕をしている人を裁くのは、主に逆らうことになる。
3 . 配慮しあう
私たちのからだが健全な状態なら、「一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶ(26)」 互いの痛みを感じとれなかったり、喜びを共有できないとするなら、かしらであるキリストにきちんとつながっているかどうかを確認すべき。麻痺状態ならからだの部分であると感じられない。 しかし麻痺が回復すれば、他の部分ともつながっていることを実感できる。そして「各部分が互いのために、同じように配慮し合う(25)」という状態になるならば、からだ全体が満足できる。 自分がキリストのからだの一部分だということを自覚し、ほかの部分を尊重することは当然と考え、配慮しあおう。