礼拝メッセージ(2021年1月)
2021年1月24日
宣教者:國分広士牧師
聖書箇所:マタイ 14章13節〜22節
宣教題:あなたがたが、あげなさい
1 主イエスは、人々を深くあわれまれた
- パンの奇跡の記事は、四福音書すべてに記されている。それだけ重要なしるしだということだろう。この奇跡は、実は人々がそれぞれ隠し持っていた食料をわけあったのだと解釈する人もいる。しかし、もしそうなら美談であり、ありのままに表現しないほうがおかしい。四福音書が共通して記している記述を疑うのは、良い読み手ではない。
- それはバプテスマのヨハネの殉教の知らせを聞き、自分だけで寂しい所に行かれた時だった。ヨハネの死を悲しみ、静かに父に祈る時を持たれたのだろう。ところがそれを邪魔するように群衆が押し寄せた。
- 主イエスは群衆を邪魔扱いせず、彼らをあわれんで、病人をいやされた。この、人への「あわれみ」こそ、主イエスが人となられた理由。神はあわれみ深い方。
- 私たちが人と接するのに疲れやすいのは、あわれみの心が足りないから。主ご自身から愛をいただく必要があることを自覚しよう。
2 主イエスは、弟子たちにも人々をあわれむように教えた
- あわれみの足りない弟子たちは、群衆の解散を求めた。いつか解散しなくてはならないのは必然だが、問題はタイミング。弟子たちはこの時がギリギリのタイミングと思ったが、主イエスは早すぎると考えた。
- 弟子たちはもっともらしい解散の理由を述べる。人々には食事の必要があるが、さびしい所にいるので移動しなくては食べものを得られない。各自が自分の食料を調達できるように解散すべきだと。
- 述べられた表面上の理由の背後に本音が見える。弟子たちは自分が空腹で疲れているが、主イエスが群衆の世話をしているので、その場を離れられず、苛立っていたようだ。弟子たちは人々より自分をあわれんでいた。
- 主イエスは、人々に食べさせてから解散しようと考えていた。弟子たちはそれはできるはずがないと、最初から可能性を考えていなかった。
- もしも彼らに人々へのあわれみが豊かにあったら、解散を進言する前に、人々の必要を主イエスに訴え、その解決を求めたのではないか。私たちは「できるできない」を判断の基準にしやすいが、主には不可能はないので、実はそれは本当の理由にはならない。主の御心かどうかこそが、求めるべきこと。
3 主イエスは、弟子たちへの配慮も忘れなかった
- 主イエスはわずかなパンと魚を用いて、全員を十二分に満たした。あまったパン切れを見ると、明らかに最初より増えている。主の力を信じよう。この奇跡にあたり、弟子たちは主の恵みを人々に手渡す使命が与えられた。弟子たちはその使命をはたすことで、人々の喜ぶ顔を見ることができた。私たちにも、主の恵みを人々にわかち与える使命があるのではないだろうか。
- 主は食べさせた後で、弟子たちを舟に乗せて奉仕から解放された。その上で、ご自分で人々を解散させた。主イエスはやろうと思えばご自分で何でもできた。あえて弟子たちにさせることで、彼らを教育し、彼らにも恵みを与えたのだ。主イエスに従う弟子たちは使い捨ての道具ではない。主はあわれみ深いお方なのだ。
- 主を信じて、主の御心を求め、それを行おう。
一覧表に戻る
2021年1月17日
宣教者:國分広士牧師
聖書箇所:マタイ 13章10節〜17節
宣教題:奥義を知れる幸い
1 たとえを用いての宣教
- 主イエスはたとえを用いてお話しされることが多かった。ここでは、有名な四つの種のたとえが語られた。話の最後に「耳のある者は聞きなさい。(9)」と言われたのが意味深。集まる人は多いけれど、真に主イエスのことばの意味を理解する者は少なかったのだろう。そこでたとえを用いられた。 (13)
- たとえは話を面白くきかせ、しかも印象に残る効果がある。面白ければいいのではない。面白さを追求するならお笑い芸人の話を聞いた方がいい。心に印象が残り、その時には理解できなくても、やがてその意味を悟り、悔い改めるチャンスを与えることこそ、主イエスの意図だったのだろう。
2 奥義を知ることが許されているのは恵み
- 主イエスの12弟子たちは、主イエスと生活をともにしているので、自分の疑問を直接尋ねて、理解を深める機会が与えられていた。それは大きな恵みだった。彼らは主イエスに色々な質問をしたことが福音書に記されている。時には愚問もあれば、非常に良い質問もあった。そうした質問をすることこそ、彼らに与えられた大きな役割だった。
- 主イエスも弟子たちの質問に丁寧に答えられた。そうして、一方的に主から教えが語られる野とは違い、主イエスとの心が通じるやりとりの上で教えられたことは、素直に受け止めることができる。
- 弟子たちとの会話だからこそ明かされる、主イエスの嘆きも、ここでは語られた。あんなに大勢が集まって熱心に聞いているのに、真に悟ることが少ないと。
- 弟子たちの幸いは、主イエスと人格的に交わることができたこと。理解が追いついていかなくても、主イエスの愛を感じ、信頼は深まる。「持っている人(12)」とは、主イエスへの信頼を持っている人なのだろう。そういう人は、さらに豊かに与えられる。しかし、主イエスへの信頼を持っていなければ、その時には知恵があるように見えても、やがて無意味なものとなってしまう。
3 与えられている恵みを感謝して受け取ろう
- 私たちには聖書が与えられている。聖書を読み祈りことで、弟子たちのように、主イエスと交わることができる。疑問があるなら祈りで尋ね、その上で聖書を学ぶなら、豊かな答えを得る。そうして、自分の祈りを聞いてくださる主イエスを信頼するようになる。
- 多くの預言者や旧約聖書の義人たちが、私たちの持つ聖書を見れば羨むだろう。それを知りたか...
一覧表に戻る
2021年1月10日
宣教者:國分広士牧師
聖書箇所:マタイ 12章7節〜14節
宣教題:神は真実の愛を喜ぶ
1 『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』
- 主イエスが引用した旧約聖書の言葉を二箇所見よう。
@ホセア6:6,わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない。全焼のささげ物よりむしろ、神を知ることである。
Aミカ6:6-8,何をもって、私は主の前に進み行き、いと高き神の前にひれ伏そうか。全焼のささげ物、一歳の子牛をもって御前に進み行くべきだろうか。主は幾千の雄羊、幾万の油を喜ばれるだろうか。私の背きのために、私の長子を、私のたましいの罪のために、胎の実を献げるべきだろうか。主はあなたに告げられた。人よ、何が良いことなのか、主があなたに何を求めておられるのかを。それは、ただ公正を行い、誠実を愛し、へりくだって、あなたの神とともに歩むことではないか。
2 片手の萎えた人を前にした議論
- 律法とは神が人に与えた戒め。モーセの十戒にはこう書かれている。
安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。あなたも、あなたの息子や娘も、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、またあなたの町囲みの中にいる寄留者も。それは主が六日間で、天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造り、七日目に休んだからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものとした。」
- 安息日は世界の造り主に感謝し、あえて仕事をしないことで神を崇める日。それによって人も家畜も休めるという恩恵を受ける。
- パリサイ人たちは、癒しは働きだから、安息日には癒すべきでないと考えた。しかし主イエスは羊が穴に落ちたら安息日でも助け出すと指摘し、安息日に良いことをするのは律法にかなっていると教えた。
- 一番大切なのは、神が喜ばれることは何かということ。律法はそれを教えるためにある。勝手な解釈で、神の喜ばれない結果を律法から導き出すのは悪魔的。
3 癒しの結果
- 癒された人の反応は書かれていないが、神に感謝しただろう。彼を愛していた人たちや主イエスを信じる人々も喜び、感謝しただろう。
- しかしパリサイ人たち感謝せず怒った。なぜか。第一に彼らは癒された人を大切に思っていなかった。WHOのテドロス事務局長は高所得国の新型コロナウイルスワクチンの買い占めを批判したが、それに対して、資金を出した国が優先されて当然という反論を聞く。哀れみのないパリサイ人のよう。
- パリサイ人は自分たちだけでの相談をし、イエスは殺されるべきと判断した。同じ意見の人だけで話をまとめれば極端になりやすい。トランプ氏の演説を聞いた人たちが正義と信じて行った暴挙を忘れてはいけない。
- モーセの十戒には「殺してはならない。」とも書かれている。一つの律法を守ろうとして別の律法を破るのは、神が何を喜ばれるかと考えていないから。
- 神は真実の愛を喜ばれる。神ご自身の真実の愛は、主イエスの十字架で明確に示された。神の愛に、私たちも愛の応答をしよう。
一覧表に戻る
2021年1月3日
宣教者:國分広士牧師
聖書箇所:マタイ 11章28節〜30節
宣教題:招いてくださる主
1 誰が招かれているのか
- 「すべて」ということは広く呼びかけられている。
- 「疲れた人、重荷を負っている人」と言われて応じるのは、自分に休み・助けが必要だと自覚している人。自分は大丈夫と思っているなら、助けを求めない。
- 安易に頼ってはいけないと、無理をしてはいないか?やればできることをさぼるのは主イエスの本意ではない。しかし努力しても無理なこともある。自分が助けを必要としているという自覚が必要。
- 人に頼るのはみっともないと思ってはいないか?他者のこととして見るならば、「助けて」と言い出せない人の方が見苦しい。
- 自分の罪深さ、弱さを素直に認めよう。
2 誰が招いているのか
- 28-30節の間に、「わたし」が7度も出てくる。この「わたし」は主イエス。
- 聖書のある文脈の中で、繰り返されることばは強調表現。主イエスはここで、ご自分を強調している。ということは、他に助けを求めるのではなく、主イエスに助けを求めるべきだということ。
- 罪人の悲しさは、真の助けがどこにあるのかを知らないこと。自分の選択が正しかったのか不安で、他の可能性を探している人が多い。反対に誤った選択をしたとも知らずに安心しきっている人も哀れ。
- 病気の原因がわからない医者は正しい治療ができない。私たちの抱えている問題を真に理解し解決できるのは主イエスのみ。
- 主イエスは造り主。世界の問題を真に解決できるのは世界の造り主だけ。
- また主イエスは罪を贖う方。罪の問題を真に解決できるのは、贖い主だけ。
3 主は優しく招いておられる
- 主イエスは「来なさい」と、私たちが自発的に従うように、優しく招く。正しい言葉であっても、厳しく言われると自尊心が傷つき、心が折れてしまうかもしれない。私たちの自尊心も主イエスは大切にしてくださっている。
- 優しくても方便ではない。方便とは、正しい方向に操作するための優しい嘘。表面上は優しいが、真に人を尊重する態度ではない。
- 主イエスの優しさは真実。主は「柔和でへりくだっている」。人間になり、人間として生き、人間の弱さも実感され、私たちをよくわかってくださる。
- 主イエスの解決策は実際的で効果的。主のもとに行くと、主のくびきを負い、主イエスから学ぶことになる。「くびき」は主イエスと共にいて、主と同じ方向に進み、主の使命を共に果たすことを意味する。すなわち、主の目指す解決とは、私たちが主を喜ばせる存在になること。そうなってこそ、私たちはたましいにやすらぎを得ることができる。
- 平然を装いながら、心の奥底では「本当はこういう生き方をしていてはいけないのだ」と思いながら生きてはいないか。主イエスはそういう人を招いておられる。主の招きに応答しよう。
一覧表に戻る
2021年1月1日
宣教者:國分広士牧師
聖書箇所:へブル 10章19節〜25節
宣教題:今こそ励まし合おう
1 神に近づこう(19-22)
- 「血」とは生贄。(実に、肉のいのちは血の中にある。わたしは、祭壇の上であなたがたのたましいのために宥めを行うよう、これをあなたがたに与えた。いのちとして宥めを行うのは血である。レビ17:11)「イエスの血」とは十字架による罪の贖い。
- 「垂れ幕」とは、神殿の奥の至聖所を区切る幕。そこは神に最も近い場所で、罪ある人間は入ることが許されない。主イエスが死なれた時その幕が裂けた。(しかし、イエスは大声をあげて、息を引き取られた。すると、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。マルコ15:37-38)
主イエスは、ご自分の肉体で、私たちが神に近づく道を開いてくださった。(19-20)
- 「偉大な祭司」とは主イエス。主イエスは、いつも私たちをとりなして下さっている。(21)
- 「血が振りかけられ」とは生贄による罪のきよめを意味する。私たちは主イエスの十字架が自分の罪の裁きであったことを信じるが、そう信じるのは実は聖霊の導き(コリント第一12:3)なので、「心に血が振りかけられる」とは信仰による救い。
- 「からだをきよい水で洗われ」はバプテスマ。心の信仰は、身をもって表現することで、真心を示せる。神から逃げずに近づこう。
2 希望を告白し続けよう(23)
- 私たちを救う約束は、主ご自身が与えて下さった。約束は、相手が守ってくれることを信じるところに意義がある。主は約束を守る真実な方。損になっても誓いを果たす。(詩15:4)
- 「動揺しないで」ということは、不安な状況があったということ。私たちも今、不安な状況の中にいる。ならばこの勧めは、私たちにも与えられている。
- 神が真実な方であることを思い起こそう。そして、主のみこころが一番すばらしく、主はご計画通りに事を行われること、また自分も主に愛され、主のご計画の中で取り扱われていることを信じよう。この信仰に立つ時、私たちは希望を告白できる。
3 互いに注意を払おう(24)
- 私たちの信仰は、自分個人の事柄にとどまるべきではない。神を愛することと隣人を愛することは切り離せない。(ルカ10:27)なぜなら、神は自己充足しておられ、何かしてもらう必要はないが、神の愛している人々には、常に何らかの必要があるので、その人々に愛と善行をすることで、神を喜ばせることができるからである。
- 互いのことを、「神に愛されている人」として注意を払おう。自分も相手も、自発的に神に喜ばれる愛と善行をするようになることが、目標である。
- 「促すため」とある。見守るべき時も多いと思うが、促されることが有難い時もある。貴重なその時を見逃さないように、互いに注意を払うのだ。いつも互いのため祈ろう。
4 ますます励まし合おう(25)
- 「ある人たちの習慣」が何を意味するのかは不明。初期のキリスト教会は迫害を受け、集まり続けたために捕まり殺されたキリスト者が大勢いた。迫害を避けるためキリスト者として集まることをやめた人々がいたのだろう。今日、コロナ感染予防のために集まることをやめている人々がいる。感染予防の観点からは彼らの判断は正しいように思える。しかし、聖書は集まりをやめず、むしろ励まし合うことを教えている。
- 「その日」は再臨のことだろう。たとえ殺されても再臨の時によみがえることを信じ、キリスト教は集まり続けた。不安要因があるときこそ、信仰の本気度が試される。
- 不安が多い今こそ、私たちは互いに励まし合おう。主が最善をなされる。私たちは互いに注意を払い、愛と善行に努め、また兄弟姉妹も愛と善行が成せるよう励まそう。
一覧表に戻る
Copyright (C) 2021 Nakanoshima Christ Church