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礼拝メッセージ(2014年6月)

今月のみことば
神である主は仰せられた。 「人が、ひとりでいるのは良くない。  わたしは彼のために、彼にふさわしい  助け手を造ろう。」(創世記 2:18)



2014年6月29日

國分広士牧師
聖書箇所:創世記 5章25節〜6章8節
宣教題:「残念に思う神」
國分牧師

1.主は人の歴史を見ておられる

罪を犯し神のもとから追放されても、神は人に関心を持ち続け、九百歳も生きる初期の人の生涯も見守り続けられた。人の一生は全て天の書物に記録されている。しかし神は単に傍観しているのではなく、みこころに従って歴史に介入されるときもある。

2.人の齢を120年に

神に背いて生きる人間は、常に悪いことを考えていた。神は立ち返らない人間の心を見られ、ついに人の齢を120年にすることを宣言された。ノア以降、900歳台はいなくなり、アブラハム以降は、100歳台になる。もはや人間にはむだにすごす時間などほとんどない。だからこそ、今、真に意味のある生き方を、主に求めるべきなのである。

3.残念に思う

造り主には創造の意図がある。愛に満ち聖い主は、ご自分に似せた人間が、汚れや非情を行うことを計画されたのではない。しかし、罪を犯す人間は、どんどん主の意図からそれて行く。いつも心に悪い思いがあるので、多少の罪など罪とも思わないのだ。もしも汚れた手を洗いもしないで、ごちそうを食べる人を見るなら、どう感じるだろうか?主は残念に思われた。罪を悔い改めないを、主は残念に思われている。
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2014年6月22日

國分広士牧師
聖書箇所:サムエル記第一 1章1〜28節
宣教題:「主に祈って泣いた女」
國分牧師

1.心を注ぎ出す祈り

祈りは表面的な内容になることが多い。自分の心を開いて、神に本当の自分の思いを語るのは簡単ではない。よほど心の余裕がなくならないと、本音の祈りにならないことが多い。ハンナも追い詰められたからこそ必死に祈った。ただでさえ子が生まれない悲しみを背負っているのに、ぺニンナわざと彼女をいらだたせた。しかも、心の慰めを得られるはずの、神への礼拝のタイミングで。しかし苦しみにあったことは幸いだった。

2.心に平安が

ハンナは「主に心を注ぎ出していた」(15)。神はこのような心のへりくだりを喜ばれる。(詩51:17) ハンナの祈りがその場限りの表面的なものではなかったことは、心の変化でわかる。彼女の表情が変わり食事ができたのだ。まだ祈りの結果は見ていないけれど、神が必ず良い結果をくださると信じて、本当に安心したことがその変化から読み取れる。

3.神への従順

さらにハンナは誓願を果たした。祈って良い結果を得ても、その後に神に従順に従うかどうかは分かれる。先延ばしにしたり反古にしたりして誓願を果たさなければ、サムエルは大預言者にはならなかったかもしれない。決意して神に真実を告白した者は、従順に従うことも選び取ろう。
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2014年6月15日

國分広士牧師
聖書箇所:創世記 5章1〜24節、へブル人への手紙11章5〜6節
宣教題:「神とともに歩んだ人」
國分牧師

1.生き、死ぬ人々

聖書にはいくつもの系図がある。系図は現実の歴史を語る有力な証拠。900歳も生きたことに疑問を感じるが、過去の記録を憶測で別の数字に置き換えるのは不毛。疑問は疑問として残し、理解できる事実に注目しよう。系図においてはどんな人だったかはほとんど不明。それでも彼らは確かに存在した。目立たない人のことも神は覚えておられる。

2.死ななかった人

必ず「死んだ」と締めくくられる系図の中で、唯一、エノクの記述は異なり「いなくなった」と書かれている。ヘブル11:5では「死を見ることのないように移されました」と記されているので、死を経験せずに天国に入れられたということのようだ。死を当然と考えやすいが、聖書は「罪の報酬は死」と、死は刑罰だと教えているので、罪なき聖い人は死ななくてよいのだ。

3.神とともに歩んだ

エノクの聖さの秘訣は「神とともに歩んだ」こと。人はともにいる相手によって大きな影響を受ける。神とともに歩むので、いつも神から良い影響を受け、過ちに陥らないように助けられて生きた。神がむりやりエノクを支配したのでなく、エノクは自発的に神と歩んだ。私たちは誰とともに歩む事を選びとっているだろうか?
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2014年6月8日

國分広士牧師
聖書箇所:使徒の働き 2章1〜42節
宣教題:「主の名を呼ぶ者は救われる」
國分牧師

1.わずか10日後

弟子たちが「聖霊のバプテスマ」(1:5)に備えて祈り待つ期間は10日しかなかった。五旬節は過越の祭りから50日目の祭り。主イエスは過越の祭りの時に十字架にかけられ、3日目によみがえり、40日間弟子たちとともに過ごし、召天。それから10日で五旬節。祈り備えることは個人的には大切な経験だが、神のわざの進展は人間の努力の程度には左右されない。

2.聖霊は弟子たちによって神の偉大なわざを語られた

この現象を集団ヒステリーと見ることはできない。色々な言語を用いただけで、内容的には明確なメッセージを語っており、ちゃんとそれを聞いて理解している人々が居た。聖霊は弟子たち一人一人を用いて、様々な言語を持つ様々な人々のところに、福音を届けられた。聖霊のメッセージは「主の名を呼ぶ者はみな救われる」ということ。

3.私はどうしたらいいのか

使徒ペテロの説教で心を刺された人々は、自分はどうしたらよいのかと尋ねた(37)。この尋ねる姿勢が重要。導きを求める人は勧めにも素直に従う。ペテロは「悔い改め・バプテスマを受ける・聖霊を受ける」と教え、3千人がその勧めに従った。自分自身はどうだろうか?主に「私はどうしたらいいのか?」と尋ねてみるべきではないだろうか。
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2014年6月1日

國分広士牧師
聖書箇所:創世記 4章26節
宣教題:「主の御名で祈る」
國分牧師

1.「祈り」とは

他の宗教でも祈りはある。宗教が異なっても、自分の限界を超えた願いを、自分より力ある存在に頼り求める謙虚な姿やへりくだった心の姿勢という点には、共通性を感じる。しかし、だからといって「同じだ」とみなすのは早計。真に大切なのは、誰に祈るのかということ。

2.「主に祈る」とは

主アダムの子セツの子エノシュが生まれた時、 三代目の時代から主の御名によって祈ることを始めた。エデンの園の近くで暮らしていた時には、神に語りかける時にはエデンの入口で呼びかけたが、しだいに離れた所にも暮らすようになる。またカインの経験から、神はどこにいても見ておられる事も知ったので、その場で神に呼びかけたいと願うことから、現在のような「祈り」という神への呼びかけ方が始まったのだろう。

3.「主の御名によって祈る」とは

名前は相手の人格を表す。「主」はおそらく「ヤーウェ」と発音したのだろうが、みだりにとなえないようにと、あえて「アドナイ(主人)」と言っているうちに、正確な呼び方を忘れてしまった。しかし私たちは、正確に相手を特定できる名前を知っている。それは「イエス様」。だからイエス様の名前によって祈る。
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