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礼拝メッセージ(2014年4月)

今月のみことば
神である主は仰せられた。 「人が、ひとりでいるのは良くない。  わたしは彼のために、彼にふさわしい  助け手を造ろう。」(創世記 2:18)



2014年4月27日

國分広士牧師
聖書箇所:詩篇16篇
宣教題:「いのちの道」
國分牧師

1.主に身を避ける幸い(1)

主を信じる信仰の幸いを学ぼう。第一に、主に身を避ける幸い。避けなければならない危険が迫っている。いざという時に身をさける場所はどこか?私たちのいのちは、いつ終わるかわからない。そして死後には神の裁きがある。実は滅びか救いかのギリギリを生きているのが人間。だからこそ、裁き主である神に身を委ね助けていただく者は幸い。

2.自分の前に主を置く幸い(8)

危機状態のときだけでなく、日々主を求めよう。自分と主との位置関係が重要。後ろなら自分が優先。横なら対等。前なら、自分が従うということ。神に束縛されると恐れてはならない。主は私たちを友と呼び(ヨハ15:15)、私たちの罪の罰を身代わりに受けて死なれた。この方に聞く者は、いつも適切な助言をいただける。

3.いのちの道を行く幸い(11)

主は、私たちが歩む時には右にいてくださる。私たちが歩むべき「いのちの道」とは、主イエスを自分の救い主と信じて、永遠のいのちへと進む道。主イエスを信じる者は、神の裁きを受けても、主イエスがとりなしてくださる。天の父の家には私たちの住まいが用意されており(ヨハ14:2)
地上のどんな幸いにも勝る大きな喜びが与えられる。主に身を避け、主に聞き従い、主が与えてくださる道を主と共に歩もう。
音声を聞く(MP3 64Kbps 28分)


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2014年4月20日

國分広士牧師
聖書箇所:ヨハネの福音書 20章1〜31節
宣教題:「主は生きておられる」
國分牧師

1.空になった墓

キリスト教と他の宗教との決定的な違いは、復活の主を信じることにある。主イエスは確かに死なれ、また復活された。墓が空になり傷跡も残っていたのだから、死んだ体が生き返ったのだ。これによって、主はいのちを支配する方であることが証明された。私たちが信じる「永遠の命」とは「からだのよみがえり」なのである。

2.復活した主にお会いした弟子達

復活した主は、それ以前と異なる面も見せられた。しっかり戸が閉じられた室内にも急に現れ、また忽然といなくなる。「世の終わりまであなたがたとともにいる」(マタイ28:20)と言われていたように、姿を見せようと思えば見せられるが、見えなくても「いない」のではなく、実はともにいて下さる。

3.傷のあと

復活を簡単には信じられないのが常識的な人間。「釘あとに指を差し入れてみなければ」というトマスの疑い深さには、共感も感じる。その彼が主イエスを「私の主。私の神。」と呼んだ。ユダヤ人が「神」と呼ぶのは創造主だけ。トマスはいのちを支配する主イエスこそ、創造主だと認めたのである。疑った分、信仰も明確になった。私たちも主イエスを確かに自分の神と告白し、今も生きておられる主により頼む者になりたい。
音声を聞く(MP3 64Kbps 32分)


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2014年4月13日

國分広士牧師
聖書箇所:創世記 3章12〜19節
宣教題:「裁きの中の希望」
國分牧師

1.悔い改めない者への罰

「罰」には大きく二つの意味がある。第一は罪の報い。第二は反省をうながす教育的な罰。司法罰は、教育的罰という傾向が強いので「死刑」に反対する意見もある。しかし「罪には報いがある」という前提なしには教育は成り立たない。神の裁きにも反省心の薄い人間を悔い改めに導こうとする面と、罪に報い、罪を滅ぼそうとする面がある。

2.罪の報い

神は「必ず死ぬ」と言われたが、その場で即死するという意味ではなく、人生の苦しみを味わい、ついに死んで元の土に帰るという意味だった。人生の中で最も意義深い出産でさえ非常な苦痛が伴う。しかも苦労して歩んだ人生もむなしく消え、存在が忘れられる。それは単なる自然現象ではなく罪の結果なのだと知る時、創造主への悔い改めの機会となる。

3.言い逃れようとした

15節には、単なる裁きだけでなく、希望が示されている。「女の子孫」によって、罪をもたらした蛇、すなわちサタンは打ち砕かれる。この「女の子孫」こそ、メシヤ(キリスト)。蛇がキリストに噛み付くというのが十字架を指している。神は罪に対する勝利を約束されたのだ。ここに希望がある。私たちは罪に勝てないがキリストは勝利される。だからこの方に救っていただこうと信じるのである。
音声を聞く(MP3 64Kbps 30分)


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2014年4月6日

國分広士牧師
聖書箇所:創世記 3章6〜13節
宣教題:「神の顔を避ける悲しさ」
國分牧師

1.裸を隠した

記録上、人間の最初の創造物は「腰のおおい」。動機は恥ずかしさ。善悪を知った人間の発見は「自分のみじめさ」。せめて自分の一番弱い部分を覆うものが欲しいと作った。しかし、それは真に役立つ物ではなかった。人は恥ずかしさを覆うために無駄な努力をしやすい。恥ずかしさは罪責感からきているのだから、神に悔い改めるべきだった。

2.身を隠した

神はいきなり叱らず、少し遠くから声をかけた。人が自首する機会を与えたのだ。しかし人は神の顔を避けて身を隠した。神からは丸見えなので、これも無意味な行動だったが。隠す行動は、真実を受け入れられない思いの現れ。自分の罪を認めない限り、隠れ続けなければならない。それで神はあえて「どこにいる?」と尋ね、自分から謝る機会を与えた。

3.言い逃れようとした

神への人間の返答は、心を閉ざし謝ろうとせず、誰が一番いけないのかという責任転嫁でごまかそうとしている。「女が」「蛇が」と、自分以外に責任をおしつけられれば、真の理由などどうでもいいという態度。12節の言い逃れの真意は「神こそ悪い」ということ。これこそ罪の本質。神を信じるのか、うらむのか。その差はあまりに大きく、どちらになるかで救いか滅びかも決まる。自分の罪を悔い改め、神を信じる者になろう。
音声を聞く(MP3 64Kbps 26分)


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