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礼拝メッセージ(2014年3月)

今月のみことば
神である主は仰せられた。 「人が、ひとりでいるのは良くない。  わたしは彼のために、彼にふさわしい  助け手を造ろう。」(創世記 2:18)



2014年3月30日

國分広士牧師
聖書箇所:創世記 3章1〜9節
宣教題:「あなたはどこにいるのか」
國分牧師

1.神は本当に言われたのか

人間には神のみこころに従うという課題が与えられている。従うためには三つの必要がある。第一に「みことばを聞く」こと。第二に「みこころを理解する」こと。第三に「みこころに従う行動をとる」こと。ヘビはまず第一について問う。神は何と言われたのか?女の答えには、あいまいな部分がある。ちゃんと聞いていなかったのだ。

2.神のようになりたかった

蛇は第二にゆさぶりをかけ、神の真意を疑わせようとした。もしも食べたらというような、未知の領域についての判断は、信仰によって大きく変わる。彼らには神のようになりたいという願いがあったが、それは本来は良い願いであった。蛇は善悪の木の実を食べれば願いがかなうと言ったが、本当は、誘惑を退ける事で願いは実現に近づくはずだった。

3.彼らはどこにいたのか

人間は蛇を信じた。そしてその信仰に従った行動をとった。なぜ神に尋ねなかったのか?彼らはどこにいたのか?神に尋ねる事ができないようなところにいたのか?彼らはエデンにいたのだから、神を呼べば答えてくださったはず。罪に向かいたい時、人は神から心を背ける。罪の誘惑は避けられないが、誘惑を感じた時こそ、神に助けを求めよう。神はいつでもそばにおられるのだから。
音声を聞く(MP3 64Kbps 31分)


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2014年3月23日

國分広士牧師
聖書箇所:ルカの福音書 23章33〜46節
宣教題:「彼らを赦してください」
國分牧師

1.十字架の激しい苦しみ

十字架は最も恐ろしい死刑。貼付けにされた罪人は痛みと息苦しさと、死の恐怖にもがくが、簡単には死ねずに何時間も(時には何日も)十字架上で過ごす。しかも周囲には自分をあざけりののしる人々。罪人が怒ってわめきちらすのは自然。イエスをあざけったのも、たまたま怒りの矛先がイエスに向かっただけ。むしろイエスをかばったのは不思議。

2.私を思い出して下さい

なぜイエスをかばったのか?理由はわからないが、確かに言えるのは彼のすぐ隣に主イエスがおられたこと。最初は隣の男はペテン師だと思いののしった(マタイ27:44)が、自分を貼付けにしたローマ兵のためにとりなしの祈りをし、悲しむ母をいたわり(ヨハネ19:26-27)、人をののしらずに父なる神に叫ぶ(マタイ27:46)姿を間近で見た。そしてついにイエス様は「御国の位に着く方」だと思うようになった。それなのに何もわかっていないもう一人がまたイエスをののしるので、ついかばったのだろう。

3.わたしとともにパラダイスに

罪人は「思い出してください」とだけ願ったが、主イエスは優しく「わたしとともにパラダイスにます」と答えられた。自分の罪を認め主を信じる者は、救われるのだ。
音声を聞く(MP3 64Kbps 29分)


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2014年3月16日

國分広士牧師
聖書箇所:創世記 2章18〜25節
宣教題:「一人でいるのはよくない」
國分牧師

1.助け手が必要

人が一人でいるのはよくない。人には助け手が必要だから。神は人を一人で生きる存在としてではなく、助け・助けられて生きる存在としてお造りになった。私たちにとって一番大切なのは家族。次に友人。結局「助け手」が大切。本当に必要としている存在を大切にしよう。

2.見つからなかった

様々な生き物を神は人に見せられた。それらは人に喜びを与えるが、「ふさわしい助け手」とはなり得なかった。自分と対等にわかち会える存在を人は求めているが、なかなか見つからないという経験を、神はあえてさせた。ついに出会った人を感謝する事ができるように。

3.神が連れてこられた

神の最後の被造物は女。女は男のために造られた。男は女のために、前もって造られた。アダムは一目で気に入り彼女を「私の骨からの骨、肉からの肉」と呼び、かけがえのない存在が与えられたことを喜んだ。自分を造った神が、自分にふさわしい助け手を知っておられる。主に期待し導きを求めよう。
音声を聞く(MP3 64Kbps 26分)


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2014年3月9日

國分広士牧師
聖書箇所:創世記 2章4〜17節
宣教題:「善悪の知識の木」
國分牧師

1.思いのまま食べてよい

神は人間を造り、その住まいとしてエデンの園を造られた。園には見た目も味も良い木の実をならす木がたくさんあり、人間が生きるのに良い環境が整えられていた。人間はエデンの園で隔離されていたのではなく、行動の自由が与えられていたことが「思いのまま食べてよい」ということばからわかる。神は人間の喜ぶ事を知っておられる。

2.善悪の知識の木からは取って食べてはならない

自由が与えられた上で、禁止命令が与えられる。園の中央には特別な木が二本あり、その一つの善悪の知識の木の実はたべてはいけないという禁止命令。そんな木をなぜ造ったのかとよく問われるが、単に生存するかどうかだけでなく、神のみこころに従って生きるかどうかこそが神の最大の注目点であることが、この木で示されたのである。

3.必ず死ぬ

罪を軽く考えてはいけない。罪の報酬は死である。自分自身が造り主に造られた存在である事をわきまえるなら、逆らう事はあり得ない。それは高速道路を逆走するような自殺行為。それでも神は、人間を尊厳ある者と認めて、自由意思を与えてくださった。神の与えて下さった賜物である自由意志を、良い事のために用いられる者は幸いである。
音声を聞く(MP3 64Kbps 25分)


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2014年3月9日

國分広士牧師
聖書箇所:創世記 2章1〜3節
宣教題:「聖とされた」
國分牧師

1.神が聖とされた

神は六日間で創造のわざを終えられた。七目目は完成を告げ、休まれ、七目目を聖とされた。聖は俗との区別を表す。また聖という漢字には「神の声がきこえる」という意味があるので、他の六日間との決定的な違いは、神との交わりにある。神がこの日、私たちを礼拝へと招いて下さっているのだ。

2.我らも聖とする

十戒の安息日の戒め(出エジプト記20:8-11)には、安息日を積極的に守る事が教えられている。ここでのポイントは、私たちの応答にある。神は礼拝へと招いて下さっているが、応答するかどうかは人間次第。子どもも、しもべも、皆が招かれている。キリスト教では、主イエスを信じる事を告白するため、あえて礼拝を日曜日に守るようになった。

3.やがて聖とされる

黙示録には、新天新地において、神との交わりが完成する事が記されている(黙示録21:2-4,22-23)。そこでは全てが充足し、神との交わりは一時的でなく永遠。私たちがあこがれ目指すのは、この完全に聖とされる事。その望みを持っている事を、主日礼拝を守ることで、私たちは告白する。
音声を聞く(MP3 64Kbps 22分)


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